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新町のおはなし

ここは、かね久のある”美幌町新町”の懐かしい出来事を綴る場でございます。

「かね久」のはじまり

 冷害と戦いながら牛を飼い百姓を営んでいた前川市治郎さん。 昭和13年の春に肋膜炎を患い、 更に翌14年にも再発して重労働に堪えられなくなった折、親戚にあたる水戸清一さんから、「どうだ旅館をやらぬか一生懸命やれば食うだけは何とかなるぞ」との話が。そこで決心をし、 昭和14年の9月から「かね久旅館」を引き継ぎました。その時に許可をくれたのが岩間庄八という警察署長でした。
「かね
旅館」は大正元年に鉄道が開通した時に、 岡沢金作さんが始めたと聞いていますが、 一代おいて再び岡沢金作さんがやり、一ふじの料亭をやった佐藤さんが次に、その次に水戸さんがやっていたのです。(前川さんは六代目)  (以下一部割愛)
 戦前は旅館の表に、 第七師団司令部、 海軍省人事部、 産業報国会、札幌鉄道局、日本旅行会などの御指定という看板と、 ジャパン・ツーリスト・ビューロの看板もありました。
 旅館は二階建てで十三の部屋があり、一泊一円八十銭から二円位のものでした。この宿を引き受けた時は、 土地も建物も他人のもので、什器・寝具類一式を千七百円で譲ってくれたのです。
 水戸さんはこの筋向いで新橋という料理屋兼カフェを始めました。水戸さんは旅館の前にはこの隣で魚と酒を売りながら魚菜市場に関係していたのです。店や旅館の方は家族にやらせていました。 また、 旭川新聞を取り扱っていたので、 たまには藤田松之助さんい手伝ってもらって通信員にもなっていたようです。
 私がこの旅館を引き受けた時に、その旭川新聞も引き継ぎました。北海タイムス (現在の北海道新聞) よりも人気があったようで、 たしか、 三百部ほど配達したはずです。 その配達には、柏木健一さん兄弟がよく手伝ってくれました。
 戦後は、次第に観光客が増えてきましたが、昭和28年の新町大火で焼け出され、 再建には苦労しましたが、 地主さんの協力で速く建築が出来たのです。
 その頃、 旭川鉄道局の旅館課長一行が寄られたのです。 水戸さんも構内で駅弁を出していたので、 「どうだ、新しい旅館の名前を付けて貰っては?」 と言うので、向こう任せでお願いしたら 「ビホロホテル」と命名してくださいました。
 旅館をやって、 何といっても光栄なことは、 昭和33年の6月に、皇太子殿下(現天皇)をお迎えした事です。
初めにお給仕のことで相談に来られたのは細川助役さんで、本職の女中さんでは困るから堅気の家の娘を頼むとのこと。
(以下一部割愛)
 食事は皇太子さんの好きなカレーライスを出してほしいとのこと肉は鶏を使用することとしました。 果物は何かということでしたが、 何とか地物のイチゴを間に合わせたいと、 元町の忠津さんに依頼しましたら、 忠津さん一家も保健所で検便させられたそうです。忠津さん一家の懸命な努力で十分間に合いました。 アイスクリームと牛乳は雪印の工場にお願いしたのです。
 当日の台所には、コックさん以外だれ一人入れぬのです。自衛隊の森田さんが腕を振るってくれました。皇太子さんはキレイに食べてくださいました。 給仕に出た娘に「ここはミホロと言うのかと思ったらビホロと言うのだね。」とおっしゃられたそうです。

 東京からは一行十四名でしたが、 一緒の部屋で食事なされたのは六人で、道知事さんを始め約五十人の人たちはそれぞれ別の部屋で昼食されたのです。 マスコミ関係などの人たちの用意はできませんでした。
 出発前に、お付きの人がお呼びになったので私が参りますと四角いお盆に金一封と、 みんなで分けてくれとタバコを二百本ほど下さいました。 殿下お一人分の昼食代が入っており、 他の人たちの分は別に支払われたのです。 十一時定刻にお着きになり十二時丁度に出発されましたが、その一時間の長いこと、無事お送り申し上げ、ホッと一息つきました。

(引用元 美幌の開拓夜話その二)

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